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高畑勲監督

公開を聞いて、驚きから、
いまは「やってもらえるのか」という喜びに変わっている。

高畑勲

  アンは「ユーモア小説」。
  それを発見したことが、僕の一番の功績かもしれない。

―劇場版「赤毛のアン〜グリーンゲーブルズへの道〜」が公開されることになりました。これは制作当時、公開に至らなかった作品と伺っているのですが、そもそも、どういう経緯で出来上がったものなのですか。

高畑 テレビシリーズで評判になった名作ものを、総集編みたいにして劇場でもやりたいというのは「ハイジ」でも「母をたずねて三千里」でもあった。僕はそういうのは大嫌いで、絶対やりたくない。劇場用に作っていないんだから、52話分をいくら刈り込んでもロクなものにはなりません。有名場面を綴り合わせてお茶を濁すしかない。せっかく丁寧に描いた日常の魅力をみんな取り落としてしまう。「赤毛のアン」も同じことです。だから、ホール上映用に、という話が中島順三プロデューサーを通じて来たけれど、無理ですよ、と。

 でもそのとき、冒頭の、アンがグリーンゲーブルズに置いてもらえるところまでをまとめたらうまい具合に1本の映画になるな、と思いついたんです。長さもちょうどいいし、これは結構おもしろくなるぞ、と。そこで、「グリーンゲーブルズへの道」という題名にして、もし好評ならば、第2弾、第3弾も作れるじゃないですか、だから、その第1弾として作ってみたらどうでしょう、という提案をしてみました。

―それは高畑さんからの提案だったのですか。

高畑 ええ。注文主のほうは、テレビで有名になったものの全体を2時間足らずの総集編にしたら、その知名度である程度は人が見に来るだろうという見込みだったんでしょう。だから、これは僕が提案した、ひとつの詐欺(笑)。

―その作業にご苦労は。

高畑 まったくしていないですね。だって、テレビとほとんど変わっていないでしょう? 基本的にはいじらずに成り立つから提案したわけで。実はほとんど編集していないんです。

―確かにどこがテレビの1話目と2話目のつなぎだったのかなというのがわからないくらい、自然につながっていきますよね。それは、ほぼ切っていないということなんですね。

高畑 はい。3話目の尻と4話目の頭をダブらせたところを切っただけ。同じ別れを描いてるんですが、視点をマシュウ側から、去っていくアンへと変えてあったんですね。それを片方に整理した。ともかくこれで1本作って、あわよくば評判になって次につながるかもしれない、と思ったけれど、全然だめだったみたい。広島でやった試写会風な上映会に行きましたが、なぜか広がらなかったようで。

―今回これを拝見して改めて原作を読み返すと、いかに原作の会話劇に忠実だったのかということを思い知らされます。それは、当初から演出方針としてあったのですか。

高畑 もちろん。おもしろいおしゃべりな女の子が主人公なんだもの、原作の台詞抜きには考えられませんよ。自分で加えた台詞もありますが、それも、アンだったらこんなふうに言うのではないかと真似て。
 「ハイジ」や「三千里」など、我々がそれまで手がけてきた作品は、けなげな子どもが懸命に生きる、そのいじらしい姿を描くというものでしたよね。しかし、「赤毛のアン」はかなり違う。たとえば、マリラが孤児であった自分を引き取ってくれた恩人で、その恩人が自分のために服をつくってくれたのに、今流行りのちょうちん袖じゃないと言って不満な顔をする。「ハイジ」のように、安物のペロペロキャンディーをもらって無邪気に「わーい、嬉しい」と踊ったり、「私、こんなの欲しかったの」なんて言うのとは大違い。そういう子どもをいい子だと思う大人から見れば、アンは可愛げがない。 
 アンは、思春期に入り始めた子どもで、マリラとは実際の親子関係に近いわけですね。大人から見た理想像じゃない。それが、ちゃんと描かれているので、そこを読みとらないと話にならない。どういうことかというと、アンの言うことにはアンと同じような年ごろの女の子は「そうよそうよ!」とすっかり共感する。日常での自我意識。だけど、それだけじゃない。そのくらいの年齢の子どもを持つ親ならば、すっかりマリラの立場に立って読めるようにも書かれている、ということなんです。「何をばかなこと言っているの! 実用的なのがいいんだよ、服は」というのは、子を持った親ならみんな思い当たる言葉で、べつにアンをいじめているわけじゃない。ここで思わず笑いだす人も多いでしょう。
 そうすると、今までのように、視点を主人公の側にだけ置いて描いていたらダメだということです。ユーモアがなくなってしまうから。実は「赤毛のアン」がユーモア小説だということにすぐ気がついたことが、図々しく言うと、僕の一番の功績ではないかと思っているんです。
 アンも描いているけれども、その目から世界を見ているのではなくて、世界の中にいる、立場の違った人間が共存している姿をちゃんと平等に描いている。まあ、それ以前でもできるだけそうしてきたんですが、今回はさらにちょっと引いて人物や情況を客観的にとらえようと努力したわけです。
 そのように描いておけば、見る人は、アンの立場にも立てるけれど、マリラの立場にも立てる。あるいは傍観者として人間模様を楽しむこともできる。いろいろな立場から見れば、同じものごとも違うふうに見えてくるわけですね。そのおもしろさを、ゆとりを持ってユーモアとして受け取って、笑いながら見てもらいたい。子どもを持ったお母さんは、まさにマリラの立場になったり、自分が娘だったときのことも思い出しながら、二重に楽しめる。原作がそういう構造を持っている話なので、それを活かさない手はないわけですね。ですから、ナレーションも……。

―羽佐間道夫さん。男性ですね。

高畑 そう。客観的に実況放送的にしゃべる。それで見る人に画面との距離感をもたせてユーモアと、ときにはサスペンスを感じてもらう。感情移入は各人物に対してそれぞれの客が能動的にできるように作る。感情移入を拒むのではなく、感情移入を作り手が押しつけないようにしたんです。

―「赤毛のアン」は会話劇であるにもかかわらず、しゃべらないところの演出が素晴らしいなと思うんです。たとえば「喜びの白い道」を初めて通ってわくわくした後に、終わってしまった悲しみで胸がきゅんとして、じっと感じているさまなどを、表情でじっくり見せていますよね。

高畑 おしゃべりな子が、ただおしゃべりなだけだったらうるさいだけですよね。だから当然そこに感情の起伏や緩急があり、間合いがある。ああいうところを通ったときに胸いっぱいになる感受性を持っているからすてきな女の子なわけで、表出力もあるけれども、深く感受する能力もあるということですね。一々喜びにすることができる能力、それは大事なところです。スペンサー夫人のところで、グリーンゲーブルズに置いてもらえるかどうかで、ひとり一喜一憂するところなんかも、作画の櫻井美知代さんとかなり頑張ったつもりですが。


三善晃さんと毛利蔵人さんの音楽
―すごく嬉しかったですね。

―音楽が本当に素晴らしい。三善晃さんがつくられた主題歌もそうですけど、毛利蔵人さんのつくられた劇中曲もバロックが下敷きになっていますよね。

高畑 そうですね。バロック音楽はロマン派的なものと違って、感情そのものより情況にうまくつけられるんですよ。思い入れるというより、思いやれるんです。

―バロックって通奏低音があって、その上で音楽が変わっていきますが、アンの不安がずっとある中で、物語が変わっていくというところと合っているのかなと思ったんです。高畑さんは、音楽にはどこまでリクエストをされたんですか。

高畑 大してしていないです。主題歌をどうするかで迷っていたときに、プロデューサーの中島さんが、「翼は心につけて」という映画の主題歌がよかったと言うんですね。作曲したのは三善晃さん。僕は三善さんは現代音楽の一ファンとしてよく聞いていましたけど、まさか映画音楽をやる方だとは思っていなかったんです。驚いて、その主題歌をカセットに録音してもらって聞いたら、これが良かった。爽やかで若い人たちにアピールしそうな曲で、こんな歌もつくる人なんだ、じゃあ、ダメもとでお願いに行きましょうよ、ということで中島さんと一緒に行ってお願いしたら引き受けてくださったんですよ。詩は「ハイジ」のとき同様、詩人の岸田衿子さんにいくつも書いていただいた。主題歌のスケッチができて、三善さんのお宅に伺って、三善さんの弾くピアノで聞いたのですが、「うわ、こんなにいい歌を自分の映画の中で使うんだ」と感激して、すごく嬉しかったです。
 当時、三善さんは桐朋学園の学長で激務な上に体調も少し悪かった。それで、残念ながら四曲の歌しか作曲していただけなかったんです(劇場版で全曲聴けます)。でも、毛利さんを「私の音楽をよくわかっているから、うまく引き継いでくれるはずだ」ということで紹介してくださって、バトンタッチされたんですね。そしてそのとおり、新進気鋭だった毛利さんが意欲的にやってくださった。バロックは情況を思いやれる力があると言いましたが、「きらめきの湖」のところでも、花が湖面に乗り出していて、まるで妖精が……というところで実際に妖精を飛ばしましたが、そこに入った8分の6拍子のシチリアーノなどもアンが感じているものをまるごと品よく感じさせてくれました。


  僕も日常が大好きだけれど、それを楽しむには能動性が必要と思う。

―これは日常を楽しもうとする女の子の話でもありますよね。今の若い子には、日常におもしろいことが溢れていないとか、誰か自分を楽しませてくれという感覚の人が多いように思うのですが、今公開すると、そんな人たちにとって、ズシンと来る作品になるのではないかという気もしたのですが。

高畑 それはわかりませんが、僕は日常が大好きで、一番大事だと思うんです。日常をどう楽しむか、ですね。楽しんでいれば、貧富にかかわりなく、自然は恵んでくれる。太陽も照るし、雨も降る。花も咲き、鳥も歌う。そういうものを享受して暮らさなかったらつまらないし、そこは大事だと思っています。でも、じゃあ、そういうものは見たから即楽しめるようになるかというと、それは違う気がしますね。本当の日常には、そこに自分の意欲や好奇心といった、一種の能動性が必要です。

―アンの台詞で僕がとっても感心したのは、これは原作も同じでしたが、「楽しもうと思えば」ではなくて「楽しもうと決心すれば、たいていいつでも楽しくできるものよ」というところ。日常を楽しむには決意が必要なのだという、高畑さんのおっしゃった能動性が感じられるんです。このあたりがアンの生きる力になっているんですね。だから、お皿をひとつ洗うのでも楽しくなるということですよね。
 監督自身の日常を楽しむという感覚と、アンの日常を楽しんでいる感じは、何か共感するものがあったのですか。

高畑 あの言葉は、じつはリンドグレーンの「長くつ下のピッピ」にも同じようなのがあるんですね。「アン」の影響がはっきりあって。それでどっちも好きなんです。僕は享楽主義者なので、大雨が降ったあとなら長靴を履いて三宝寺池に、台風が通り過ぎたら多摩川へ遊びに行ったりする。
 アンの女の子っぽい感受力を楽しく視覚化する場面を、もう少し入れられなかったかなということが、心残りでしたね。最初にやった妖精が飛ぶ場面のようなことを、別にアンは妖精そのものを見ているわけではないんでしょうけど、その気分というものが伝わるわけだから、もっともっとやっていくつもりだったんですね。じっと何かを見ていると、それが非常に美しく見えてくる。白い画面に、今アンが目にしている木なら木が1本あるだけで、あとは何もない。そういう普通ではない表現をいろいろやれるのではないかと思っていましたが、スケジュールの過酷さもあって、十分やらないうちに終わってしまった。
 

  いま思えば、スタッフも声の配役にも恵まれて、いい仕事をさせてもらった。

―しかし、作り手も凄いメンバーですよね。

高畑 そうですね。美術監督の井岡雅宏、キャラクターデザイン・作画監督の近藤喜文、近ちゃん以下、みんな「赤毛のアン」を愛していたんですよ。手を抜けば少しはラクになったのに、誰もそんなこと考えないで、ほんとうにみんなよく頑張った。井岡さんは木々など自然の美しさだけじゃなく、室内でも面倒な壁紙もやってくれたし、近ちゃんなんか、アンが好きなあまり、最初描いたキャラクターは自分の好みのかわいい女の子になってしまった。いまの顔はかなり試行錯誤した結果なんです。この映画版の試写会に一緒に行って「本当におもしろかった」と言ってくれて嬉しかったんですけど、「でもあのアンの顔を見ると、やはりぎょっとする」と言ったんです(笑)。
 あれは、僕が彼に必死であの顔にしてもらったわけです。つまり、骸骨のように痩せてて、目だけ大きくて、そばかすで、隣人のリンド夫人に「凄い子だねえ」と言われるような変な女の子の顔でなけりゃならない。それでいてどこか不思議な魅力もあり、骨格としては将来は美人になる顔でなくてはならないわけです。たいへんな注文ですよね(笑)。でもちゃんと、あのシリーズを見ていると、だんだん美人になっていくでしょう。

―はい、確かに魅力的になっていきますね。

高畑 色指定の保田道世さんも、僕が考えていたのと同じように、アンをリアリティを持った少女として見ていたんですね。最初のアンの服を、いちばん地味な木の色、雨にさらされた木のような色で塗ってきた。孤児院から来た女の子らしく、何度も洗濯して色が褪せたようなところを感じさせる色ですね。それを見て、わかっているなと思いましたね。
 あのときは、みんな仲間だし、とくに豪華メンバーだとか全然思っていなかったけど、いまになってみると、みんな凄い人たちだったんだなということがわかる。本当に恵まれていたと思います。

―声優さんたちも素晴らしいですよね。

高畑 アンの声を決めるときに、島本須美さんと山田栄子さんの2人が候補として残ったんです。それで大半の人は島本須美さんを推しました。島本さんが本当にきれいな声だったからです。原作にもアンはきれいな声だとあるし、当然島本さんですよね。しかし、僕が山田さんを選んだんです。

―なぜですか。

高畑 さっき話したユーモアと客観性に関係するんです。この作品にはユーモアが必要。澄んだ声でエロキューションも一流だと、すんなり身に合った台詞に聞こえてしまうのではないか。でもアンはある意味背伸びしてるんだし、子どもにしては言葉を飾りすぎるわけなんだから、それをちゃんと感じさせたい。そう考えると、山田さんの声のほうがいい。彼女には失礼だけど、まだ上手でもない。でも、その一所懸命さがいい方に働くに決まっている。一所懸命背伸びした物言いをしたり、子どものくせにあんなことを言ったりして……というようなことが醸し出すユーモアというのは、なかなか言葉の内容だけで伝えるのは無理なんです。ちょっとひっかかりがあって初めてユーモアが出てくるはずだと思ったんです。それから、マリラが大事でしたよね。北原文枝さんは、すばらしかったですね。しかも、北原さんと録音監督の浦上靖夫さんが山田さんを支えてくれたんです。

―マリラのピリッとした、早くアンを受け入れてくれればいいとこちらに思わせる感じ、迷っているところもいいですよね。根は悪い人じゃないというのが、ちらちら見える。

高畑 そういうのがユーモアも含めていいんですよ。今ドラマなんかを見ていると、家族がどうしてこんなに異常にベタベタしているのだろうと思わないですか。気を遣いすぎ。あんなことないですよね。もっとお互いに突き放しているほうがうまくいくはず。僕は、マリラのああいう感じは本当に好きですね。

―今回、30年ぶりにこの作品が上映されるにあたって、改めて何を思われますか。

高畑 こういうときって、いつもそうなんですが、一旦びっくりする。そんなの興行的に無理なんじゃないか、よくやるなと思う。でも、それが次第に、やってもらえるのかという喜びに変わってきますよね。見たらおもしろいはずだというのは密かに思うし、何より一緒にやったスタッフ、中島プロデューサー以下録音の人まで、声優さんも、苦労したみんなが喜ぶんじゃないかと思って。

―皆さんに見ていただくのが楽しみですね。

(インタビュアー/読売新聞社 依田謙一)