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イギリスのアニメーション・スタジオ、ハラス&バチュラーによる「動物農場」が完成したのは一九五四年秋で、ニューヨークでのワールドプレミアでお披露目されたのは同年暮れのことだった(英米での一般公開は一九五五年一月)。イギリス初の長編カラー・アニメーション映画として特筆されるこの作品については、近年、新史料の発掘などもあって、文化史やメディア研究などの分野からその制作の経緯について新たな光が与えられている。本稿は、それらの新たな知見をふまえつつ、原作者ジョージ・オーウェルの創作意図、また受容のされ方を併せて見ながら、映画化の経緯、原作との異同、またその意味合いについて、紙数の許す限りでスケッチを試みてみたい。
原作の『動物農場』の初版刊行の日付は一九四五年八月十七日である。日本がポツダム宣言を受諾して降伏したのが八月十五日、これで第二次世界大戦が終結したわけなので、まさに終戦時に(そして広島、長崎の原爆投下と同月に)これが出たことになる。これをオーウェルは戦争中に書き、一九四四年二月には完成させている。脱稿後ロンドンの四つの出版社にもちかけたのだが、四四年七月までにすべて断られた。理由はこれがソ連批判の書であったためである。同年八月末にセッカー・アンド・ウォーバーグ社が引き受けることに決まったが、戦時中の紙不足のためにさらに延び、一年後にようやく刊行の運びとなった。書店に並ぶやいなやこれが大ヒット、翌四六年には米国でも刊行され、たちまちベストセラーとなる。さらにそのあと、各国語版の翻訳刊行がつづく。大ヒットの理由は、ソ連批判の書であったからだ。
ソ連批判の書であるがために刊行が難航し、刊行されるとおなじ理由でベストセラーになったというのは、矛盾した話に聞こえるが、英米とソ連の関係が終戦時を境目として大きく様変わりした事実を示せば、納得していただけるであろう。ソ連とドイツとは大戦が勃発した時点では独ソ不可侵条約を結んでいたが、一九四一年六月にドイツがソ連侵攻を開始するとソ連はイギリスと同盟を結び、ドイツを共通の敵として戦うことになった。米国もソ連への援助を開始した。四三年二月のスターリングラード攻防戦でのソ連の勝利が大戦全体の画期となったのだが、オーウェルが出版社を模索していた一九四四年においても、連合国側のソ連の役割は重要だった。『動物農場』の企画を断った三つの出版社は、そのような戦時の国際関係と国民感情を配慮して、その原稿を却下したのである。
ところが戦後、米ソ二大国を中心としたブロック化が急速に進み、両陣営の対立構造が強まる。一九九一年のソ連解体までつづく冷戦体制の到来である。ソ連の東側ブロックには東欧諸国などが共産圏として、米国を中心とする西側ブロックには西欧諸国や日本をふくむ世界各地の資本主義国が組み込まれ、双方を仮想敵とみなして、険悪な敵対関係が生じた。そのような戦後体制にむかおうとする転機にこの物語が出たというのは、話題性という点からすると、まことにタイムリーだったのである。