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「動物農場」を語る川端康雄さん

アニメーション化の経緯

 『動物農場』の映画化の企画が具体化するのはオーウェルが没してから後のことだった。映画化の版権を許可したのは、相続人としてその著作権を受け継いだ妻のソーニア・オーウェルだった。前妻アイリーンとは一九四五年に死別しており、文芸誌『ホライズン』の編集秘書を務めていた十五歳年少のソーニアと再婚したのは、オーウェルが肺結核で死去する三ヶ月前のことだった。

 ハラス&バチュラーのアニメーション「動物農場」の制作資金をCIA(米中央情報局、一九四七年に創設)が出しているのではないかという噂は、公開当時からすでに一部で囁かれていたことだが、それを部内者が最初に公表したのは、CIAの諜報員であったハワード・ハントによってである。一九七二年のウォーターゲート事件に連座して悪名をはせたハントは、七四年に出した回想記で自身がアニメーション制作に深く関与したと示唆しているが、それは怪しい。ソーニアから映画化権を得るのに彼女が好きなハリウッド俳優クラーク・ゲイブルに会わせるという約束で釣ったというエピソードをはじめ、従来流布してきた説には眉唾物めいたところも多く含まれる。しかしCIAの資金援助が事実であったことは、製作者ルイ・ド・ロシュモンの関連文書を発掘して証拠資料として用いたダニエル・リーブの近著『覆されたオーウェル─CIAと「動物農場」の映画化』(ペンシルバニア大学出版局、二〇〇七年)で論証されている(以下の記述はこれに拠るところが大きい)。近年の調査研究によって、CIAの出資は、もはや噂ではなく、事実であると確証されている。

 CIAは、冷戦体制化における心理戦の一作戦として、OPC(政策調整局、心理戦のために一九四八年に設置、五一年にCIAに統合)と連携して『動物農場』の映画化を企画し、ド・ロシュモンを抜擢して、制作資金を秘密裏に供給した。五一年にド・ロシュモンは、その制作会社としてハラス&バチュラーを選定。契約書を同年十月末に交わした。この会社はハンガリー出身のアニメーターのジョン・ハラスが同業者のジョイ・バチュラーと共同で一九四〇年にロンドンで立ち上げたもので(同年に二人は結婚)、英政府依頼の作品や企業のPRアニメーションなどで実績をあげていた。米国の会社に比べて制作費を安く抑えられるというのもイギリスの制作会社に依頼した要因のひとつだった。制作期間と費用は当初の予定を大幅に超え、五一年の秋から三年かけ、当初二十人の小規模で始めたのが一年のうちに七十人を超える大所帯の制作チームとなった。

 この「作戦」が「秘密工作」であった以上、著作権者のソーニア・オーウェルに対してはもとより、ハラスとバチュラーにもCIA関与の実態が伏せられていたのは当然であり、表向きはド・ロシュモンの映画制作会社RD─DR(Reader’s Digest - de Rochemontの頭文字を取ったもの)が制作に従事するということで進められたが、ハラス&バチュラーには「投資者(investors)の意向」という説明でぼかしつつも、当初から脚本およびキャラクターの描き方について具体的で細かい「要望」がなされた。コンピュータ導入のはるか以前、デジタル彩色などありえず、すべてを手作業でおこなうしかなかったこの時期に、十八のシークエンス、七百五十のシーン、カラー原画三十万枚を描くのに膨大な労力と時間がかかったということがもちろんあるが、遅延のもうひとつの理由としては、プロット等の変更の「要望」(事実上の「強要」)を受けてジョイ・バチュラーが脚本(九稿におよんだ)やストーリーボードを何度も描き直すなど、度重なる変更を強いられたこともある。その変更に伴って多量の原画がボツになった。