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「動物農場」を語る川端康雄さん

「ニュースピーク」のアニメーションは可能か?

 「投資者」たちの異常に細かい修正意見をながめてみて連想させられるのは、皮肉なことに、『動物農場』原作の結びの「どっちがどっちだか、見わけがつかなくなっていた」という一文である。アニメーターを管理・操作しようとしつづける「投資者」グループは、体制の維持のために人間の意識をいかに狭めるかに腐心している点で、彼らが叩くことを公言している全体主義的なメンタリティを事実上反復している。

 オーウェルのもうひとつの問題作『一九八四年』でいうならば、彼らは「ニュースピーク(newspeak)」の原理にしたがって『動物農場』の改変をめざしていたといえるだろう。その原理は、現実世界の認識方法を支配するべく、使用語彙の削減や統語法の組織的な操作によって、思考の範囲を縮小することをめざす。これによって「正統思想」以外は発想しえなくなる。「ニュースピーク」が示す「現実」とは、つねにその支配体制の永続化に資するものでなければならない。そのために、あらゆる手段をつくして言語を権威的に支配し、異端思想につながる変化を阻止する。ひとつの語はひとつの正統的な概念のみを厳密に指示すべきであって、それ以外は除去されるべきである。「意味されるもの」と「意味するもの」の厳密な対応。「ナポレオンはスターリンであり、スノーボールはトロツキー」なのだから、ナポレオンにはパイプをくわえさせ、「スターリンの口髭を示すようにカールさせた剛毛」をつけ、スノーボールは「トロツキーの山羊ひげを示すようなひげをつける」ようにしたらいかがか、そう「投資者」たちは注文をつける。

 しかしながら、言語の本性上、そしてアニメーションという視(聴)覚メディアの本性からいっても、それは無理なのである。「アレゴリー」という、比喩の有機的な連なりを命とする形式を用いた物語を機械的に「ニュースピーク」流に翻訳しようとすることの背理に「投資者」たちはあまりにも無自覚で、寓意の「主意」とそれが仮託された「媒体」とを逐語的に一対一対応の解釈しかできないように仕組んで、しかもそれが成功しうる、という単純素朴な言語観に私は思わず笑ってしまったのだが、冷戦下の心理戦で両ブロックがなにをしたかを考えてみれば、もちろんこれは笑いごとではすまされない。