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「動物農場」を語る宮崎 駿監督

しくみのなかでは自分だってナポレオンなんだ

―この映画のなかでも、農場主を追い出した後、動物たちが助け合って仕事を分担する場面では、働く喜びが描かれています。

 この映画に出てくる豚のナポレオンのように露骨にずるい強欲な独裁者がいて、それがひとりでうまいものを食っていて、民衆はひどいものを食いながら骨身を惜しまず働かないといけないというしくみよりは、現実はもう少しまわりくどいですね。ナポレオンのような憎々しい十九世紀的な資本家というのはもういないし、痩せ衰えた馬だって、うちに帰ってきたらインターネットで株の取引をやってるとか、そういうふうになってますよ。
 まじめに働くよりも、インターネットでちょこちょこっと株をやったり、人がつくったものをどこかに移して簡単にお金を儲けるとか、そういうのがいちばんカッコいい生き方だ、というふうに思ってる人が増えちゃった。要するに、「みんなでナポレオンになろう」みたいな社会になっちゃったんですよ。「ナポレオンになれないのは、自己責任だ」といわれてしまう。ごくふつうの人たちがナポレオンになってるんです。怠け者のナポレオンもいるけど、勤勉なナポレオンだっていますからね。ナポレオンじゃなくても、ナポレオンに使われている小ナポレオンなんです。
 もっと身近なことで言うと、日本のアニメーションのことを「ジャパニメーション」といってるけど、じっさいには中国や韓国のアニメーターたちによって支えられています。中国の人たちに仕事を頼む日本人が、たとえどんなに善意をもっていて、なるべく日本国内と同じ金額を払うとか、ちゃんと技術指導をしてあげようと思っているとか、そういうことがあったところで、向こうから見たら高級ホテルに泊まって、そこから通ってくる人間が自分たちの上に君臨していることに変わりはないんです。そこにあるのは露骨な賃金格差です。そして中国人がいくら意欲をもっていても、日本人に向かって「おまえさんの仕事を、わたしが変わりにやるよ」というのができないしくみが、厳然とそこにあることを忘れちゃいけないんです。ところが、そういうところを見ないようにして、みんな平等で同じようにチャンスがあって、チャンスをものにできないのは自己責任だ、みたいなことになっている。
 自分が善意であるからといって、自分が善良な存在だとは思ってはいけない。とくべつお金を稼いでいるとか、楽をしているわけじゃないから、自分は無罪だ、とは思ってはいけないんです。しくみのなかでは、自分だってナポレオンなんです。そのしくみの問題はいっぺんには解決できないですけど、だからといって、手をこまねいて、無関心でいられること自体、すでにそれはナポレオンなんだってことなんです。個人的なことだけじゃなくて、社会における位置とか役割によって、自分の存在の本質には、いつも気づいていなくちゃいけません。
 半世紀以上も前につくられた「動物農場」をいま公開する意味は、ここにあるんです。社会にはしくみがあるということ。複雑になってはいるけど、でも根源には、労働者がいて収奪者がいるという、そのしくみは変わってないんです。それを知るうえでは、この「動物農場」には意味があると思います。小林多喜二の『蟹工船』と同じように。蟹工船というのは、ひとつの隔絶した世界だから、国家の意味とか社会のしくみということを図式的に描きやすいし、「動物農場」も、世界の縮図として、寓話として描かれているわけですよね。
 
―映画を観ているときは、酷使される馬のほうに感情移入していますが、じつは自分だって利己的な豚のほうなんだということを忘れてはいけないですね。

 ぼくが映画化するとしたら、もっとナポレオンを複雑に描くと思います。ナポレオンがはじめからずるくて卑怯なやつなんじゃなくて、むしろ、ひじょうにまじめに改革をやりながら、やってるうちにだんだん、人に言われたことを疑いもなく信じているだけの愚鈍な動物たちがいやになってきて……というキャラクターとしてナポレオンを描いてくれたら面白かったのに、と思います。人間はそんなに単純じゃないと思いますから。