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「動物農場」を語る堤 未果さん

もはやエンターテイメントとは
感じられなくなった十四年後に思うこと。

 あの時のマシューには想像もつかなかったと思う。

 二〇〇一年の九月十一日の同時テロ。その直後にスポンサーの大企業によっておさえられたアメリカメディアがテロとの戦いというキーワードのもとに偏った情報を流し続け、国民が感覚麻痺に陥っている間に過剰な民営化や社会保障費の大幅な削減などの法案が通され、いつの間にか一部の富裕層が大勢の貧困層を搾取する格差社会が作り出されるようになるとは。

 卒業後は国に帰り広告代理店に就職するのが夢だったミンキョンは、その後不況で非正規雇用者が五割を超えた韓国で低賃金の契約社員になるなどと夢にも思っていなかっただろう。
 十四年たった今、変わってしまった日本で再びこの作品を観た私もまた、自分にとって「動物農場」がもはやエンターテイメントではなくなったことを知る。

 一握りの富を持つ者が資本を独占し、その他大勢の労働者が決してはいあがれないシステムの中、非人間的なやり方で搾取されわずかな賃金しか与えられず、そこから落ちた者は切り捨てられる。若者たちは「自己実現」の代わりに「自己責任」という言葉で追い詰められ、経済格差が教育格差を固定し、そこでつくられた一部のエリートのみが進化する技術を理解して国の方向を決めてゆく。ちょうど「動物農場」の中で政策が一部の豚たちにしか理解できず、動物たちが政治に無関心になってしまったように。

 ひとつ違いがあるとすれば、今の動物農場はオーウェルの作品のような目に見える独裁者がいないことだろう。私達にとってのナポレオンと豚達は、網の目のように世界中に触手を伸ばす多国籍企業と政府、そしてメディアの癒着が生み出す、ひとつの巨大な力だからだ。搾取される側もまた「安い労働力」という名の商品になり、国籍や肌の色、宗教の違いなどはもはや意味をもたなくなる。そんな現実にのみこまれた人々が、一体この寓話をみて「それみたことか」と喜ぶだろうか。

 何故今こんな作品をわざわざ劇場で上映するのだろう?

 怒りにも似た気持ちでそう思った時、私は初めて考えた。

 確かに寓話は時代を超えられる。だがそこにプラスアルファをつけるのはやはり人間なのだ。

 国の政策によって超格差社会化したアメリカで、兵士より学生を増やしてくれと政府に要求する教師たちがいる。巨額の税金を防衛費に使うより、誇りを持って働ける環境をくれと声をあげる労働者たちがいる。最大の敵は国民の無知無関心だとし、報道の自由を守ろうと立ち上がるジャーナリストたちがいる。

 アメリカだけではない、かつて西側から悪魔の共産主義と呼ばれ、経済制裁を受け続けるキューバは、いま医療・教育立国として多くの国から賞賛されている。搾取され続けた歴史を持ち、独裁体制を繰り返していた南米大陸では、いま立ち上がる民衆によって次々に市民派政権が生まれている。民族同士が権力を奪い合った血みどろの歴史を持つアフリカでは、女性を中心とした新政権が、教育や福祉を重視する新しい社会モデルを目指し進んでいる。格差が拡大する韓国では若者が政治にノーをつきつけ、産業を貫く新しい形の労働組合が団結しつつある。

 人間は欲望にかられ絶滅してゆく種。「動物農場」でオーウェルが描いたのは確かにひとつのメッセージだろう。だが絶望しかないように見える状況を変えてゆく力を持つのもまた人間だという、もうひとつの真実が存在する。クリエーターには現実の向こうに見える希望を探し出すという貴い使命がある。世界を広く深い目でみつめ、その中から光を救いあげて表現する力があるからだ。そしてその時受け手は知ることになる、人間は寓話を超えられるのだと。

堤 未果

東京生まれ。ニューヨーク州立大学国際関係論学科学士号取得。ニューヨーク市立大学院国際関係論学科修士号取得。国連婦人開発基金、アムネスティ・インターナショナル・NY支局員を経て、米国野村証券に勤務。9・11同時多発テロに遭遇。以後、ジャーナリストとして活動。著書に『グラウンド・ゼロがくれた希望』(ポプラ社)『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命─なぜあの国にまだ希望があるのか』(海鳴社)で、黒田清・日本ジャーナリスト会新人賞受賞。『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。朝日ニュースター「ニュースの深層」サブキャスター、「Democracy Now!」解説者、東京新聞「本音のコラム」他。