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作者紹介

<スタジオの歴史>

 1936年、ジョン・ハラスが音楽家リストの少年時代を描いたアニメーション「Music Man」の制作に携わった際、ジョイ・バチュラーをアニメーターとして雇ったことがきっかけで二人は出会い、その後コンビで仕事をするようになる。最初は広告の仕事を中心に請け負っていたが、戦争が始まると情報映画やプロパガンダ映画の需要が増していった。二人は、この分野でアニメーションが重要な役割を果たすことを確信し、1940年結婚と同時にハラス&バチュラー・カートゥーン・フィルムスを設立した。その後、「動物農場」の成功により、当時ヨーロッパで最大のアニメーションスタジオへと成長した。


ジョン・ハラス.jpgジョン・ハラス(1912-1995)
ハンガリー生まれ。ハンガリーで美術の勉強をし、ジョージ・パルの元で働きながらアニメーションを学ぶ。パリ・ロンドンを転々とした後、アニメーション制作の現場でジョイ・バチュラーと出会う。その後、ハンガリーで映画制作をするも、第二次世界大戦が始まったのを機に再びロンドンへ移り、ハラス&バチュラー・カートゥーン・フィルムスを設立。公私共にパートナーとなったジョイと共に数多くのアニメーションを手掛けた。また、ASIFA(国際アニメーション協会)設立に携わったことや、アニメーション技法についての多くの著作を残すなど、世界のアニメーション発展の為に尽力した。


ジョイ・バチュラー.jpgジョイ・バチュラー(1914-1991)
イギリス生まれ。雑誌のイラストやデザインの仕事をしていたが、ジョン・ハラスにアニメーターとして雇われたことがきっかけで、共に仕事をするようになる。スタジオ設立後は、ジョンとのコンビで多くの作品を残したが、優秀なアニメーターであると同時に、優れた脚本家でもあった彼女は、文字通り数百もの脚本を手掛けた。一方、妻であり母であった彼女は、働く女性として当時多くの女性からの注目と尊敬の目を向けられていた。ジョンは彼女の的確な判断力を頼りにしており、現役時代はもちろん、晩年一線から退いた後も、多くの作品に影響を与えた。