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〝明日はきっと、もっと素晴らしい〞このアニメのなかの「生きた人間達」が語りかけてくれる。
高橋留美子
なぜ「赤毛のアン」が好きなのか?
と、聞かれたら、
「ものすごく面白いからだ」
と答えるしかない。
「赤毛のアン」という物語に、人智を越えた大事件は起こらない。そこにあるのは、平凡な私達の誰もが体験し得る、日常のドラマだけである。それでいて、何故こんなに毎回ドキドキするのか。
それは、アンという女の子が、とびきり豊かな感受性を持っているからかもしれない。
アンは孤児である。幼い頃から、貰われた家で三組の双子の世話に追われたり、孤児院暮らしをしたり、むしろ、マシュウ、マリラの独身兄妹の家に貰われてくる以前の境遇の方が、かなりドラマチックである。
アンは、生まれて初めて、定住する家を得て、「普通の子どもの日常生活」を手に入れる。
教会にお祈りに行く、友だちと遊ぶ、学校に通う、ピクニックに行く、想像するだけで食べたことのなかったアイスクリームを味わう……。すべての日常が初めての体験で、アンにとっては、人生の一大事である。アンは、その素晴らしい感受性でもって、いちいち感激し、大袈裟に絶望する。もう、毎日がクライマックスなのである。
「経験」を持って生まれてくる人間など、いない。思えば、赤ん坊から幼児期、そして児童になるまで、新鮮な驚きの連続であるはずだ。ただ、幼い頃の私達は、よしんば感受性があったとしても、アンのような表現力を持っていない。
「日常」に遅れて来た子ども、アンの瞳と、おしゃべりを通じて、
(感動する心があれば、こんなにも日々の生活は楽しいんだな)
と、あらためて思ったりする。
アンは、よく、馬鹿な失敗をしたり、ささいなことで激しく傷ついたり、絶望して泣いたりする。これも、無理もないことである。
私達だって、子どもの頃の、つまらん失敗で、
(もう人生はメチャクチャだ)
と、思いつめたりしたことはあるのだから。
でも、悲嘆に暮れて泣き伏すアンの背後から、妙に間の抜けたバグパイプのBGMが忍び寄ってくると、私はマリラと一緒に爆笑してしまったりする。
喜んだり悲しんだり大忙しのアンを、マリラとマシュウは、深く愛している。
マリラは無愛想で手厳しいけれど、実は、アンのおしゃべりを、かなり熱心に聞き込んでいる。アンを黙らせるべく一喝する時も、必ず、その時のアンの話題の内容や単語を引用して的確に怒る。まるで「返歌」のような鮮やかさである。マリラこそは、アンのおしゃべりの一番の聞き手なのである。
内気なマシュウも、深く静かにアンを愛している。私が大好きなエピソードは、マシュウがアンに、「ふくらんだ袖」の服をプレゼントしようとする話だ。内気で、女性との会話もままならないマシュウは、まず雑貨屋に服地を買いに行く。ところが、あろうことか若い娘が店番をしている。最初から大ピンチである……と、服を一着新調するだけで、まるで大冒険ドラマを見ているような、ドキドキハラハラの連続であった。だから、アンがマシュウの贈り物を身につけて、それがとっても似合って可愛くて、私は思わず目頭をおさえてしまった。
アンは、どんどん可愛くなっていく。最初アボンリーの駅に降り立った十一歳のアンは、決して綺麗な子ではなかった。それが、回を追うごとに確実に可愛くなっていく。重労働が減り、栄養状態が良くなった分、肉づきも良くなったのであろうが、同時に、愛と喜びに磨かれてもいったのだろう。一方的に注がれる愛ではない。アンも、その存在自体で、マリラとマシュウに新鮮な驚きと喜びを吹き込んでゆく。お互いに、欠くべからざる存在に成長してゆくのだ。
そして、賑やかで滑稽な少女期を過ぎて、アンは十五歳の美しく聡明な乙女に成長する。十五歳のアンの姿を見た時、私はすっかりマリラと同化して、胸を突かれる思いを味わった。嬉しくもあり、さびしくもある。
物語も、夢みる時を過ぎて、現実味を帯びてくる。「赤毛のアン」を見始めた以上、私達は、辛い体験をしなければならない。
マシュウの死である。テレビの本放送の予告の時、いつものBGMがなく、画面にサブタイトル、「死と呼ばれる刈入れ人」が写し出された。凍りついた自分を覚えている。
この回は、「赤毛のアン」最大の悲劇ではあるが、心臓を掴まれるような名作であると断言する。愛する者の死が、こんなにも痛いものであると描ききったアニメを、私は他に知らない。演出という言葉を越えて、高畑さん、宮崎さん達創り手の愛情と悼みが伝わってくる。アンが泣いてくれるまで、悲しいのに泣けなかった。喉が痛くて辛かった。アンが泣いた。私も一緒に涙が溢れてきた。
「赤毛のアン」というアニメを私は、時にはアンの身になり、かなりの度合でマリラの身になって楽しんでいる。おそらく一生、深く感情移入しながら繰り返し見続けられるだろう。そこに大好きな「生きた人間達」が居るからだ。そして、この物語を通じて私が一番好きなのは――
アンの歩く姿、である。子どもの頃、失敗から立ちなおった夕方や、マリラに決意を述べる時、夢を語る時――背中をすっと伸ばし、形のいい顎を上げ、空を見つめてアンは歩く。それは、アンの生きる姿勢だ。
(明日はきっと、もっと素晴らしい)
背筋を伸ばした少女の姿は、私達に、生きていく楽しさを語りかけてくれる。
*この原稿はアニメ絵本『赤毛のアン』(徳間書店)の解説原稿を再録させて頂いたものです。