西岡事務局長の週刊「挿絵展」 vol.21 イワン・ビリービン【壱】 20世紀初頭のロシアの挿絵画家


 イワン・ヤコヴレーヴィッチ・ビリービン(1876-1942)は、ロシアのサンクトペテルブルク郊外に生まれた、ロシアの画家です。ロシアの民話や絵本の挿絵も数多く手がけたほか、オペラやバレエの舞台美術家としても数多くの功績を残しました。当時大変有名だったバレエの振付師セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)が発行していた雑誌「芸術世界」(ミール・イスクーストヴァ)を支えた主要作家でもありました。この挿絵画家をなぜ取り上げるのかというと、今回の「挿絵展」において、ヘンリー・ジャスティス・フォードに並んで、取り上げられた重要な作家だからなのです。

 とはいうものの、ヘンリー・J・フォードが通俗文化の末端にいる自分たちのご先祖様として作品を紹介しているのとはちょっと異なり、アニメーションの表現において多大な影響を受けた作家のひとりとして紹介されているのです。宮崎監督自ら、「僕は1971年ごろ、『長くつ下のピッピ』を映画にするべく準備をしているときに初めて目にし、とても感銘を受けました。その後のアニメーション制作において、とても参考になった挿絵です」と述べています。

 ビリービンの作風とはどのようなものでしょうか。黒くくっきりとした輪郭線で描かれたキャラクターや背景に単一の色を貼りこんだ、いわゆる"ポスタリゼーション化"されたイラストです。現代のポップなイラストやアニメーションにおけるキャラクターのような表現なのです。絵画の質感で濃淡や筆のタッチを生かしながら、たくさんの色を重ねた表現ではなくて、単純化された面を、少ない色数で塗り分けていった表現だといえます。日本の浮世絵の多大な影響も指摘されているように、これはまさしく版画であって、クロモ・リトグラフィ(多色石板印刷)なのです。

 ビリービンは、1907年のロシア革命後、1920年からしばらく故国を離れ、カイロ、アレキサンドリア、パリに滞在しますが、望郷の念にとらわれ、1936年に再びソ連に帰国します。それから1942年に没するまで、レニングラード(旧サンクトペテルブルク)の大学で教鞭を振るったのだそうです。生涯に生み出されたたくさんの作品は、その後のポップアートに多大な影響を与え、今なお世界中から愛され続けているということです。
s121023a.jpg"Tsarevitch Ivan, the Firebird and the Gray Wolf, 1899"