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森見登美彦さん

森見登美彦

 子どもの頃、日曜日の午前中は、父が将棋のNHK杯を欠かさず見ていた。それが終わる頃になると、子どもたちがテレビの前にやってきた。「ルパン三世」が始まるからである。とはいえ、親子がテレビの前で入れ替わるわけではない。父もルパン三世が大好きだったからだ。

「日曜日の昼=ルパン三世」という印象は拭いがたく、同じ時間帯で「キャッツ・アイ」や「シティーハンター」が放映されるようになっても、日曜日という気がしなかった。「日曜日の昼は、将棋とルパン三世によって完成する」と思いこんでいた。子どもというものは頑固である。

「ルパン三世」が私の生まれるよりも前に始まったアニメだという知識はなかった。赤いジャケットのルパンが一番おなじみだったが、そもそもファースト・セカンド・サード(パート3)という概念がない。「同じルパンなのに服の色が違うなあ」「音楽が変わるなあ」というぐらいで、ぼんやりしていた。アホの子だったのである。

 私がどれぐらいぼんやりしていたかというと、銭形警部のことをルパンのお父さんだと思っていたぐらいである。なぜならルパンが「とっつぁん」と呼ぶからだ。「こいつ、勘違いしてるな」と気づいた父が、「銭形警部はルパンのお父さんとちゃうぞ」と教えてくれたときの衝撃はよく憶えている。言われてみればあたりまえである。銭形警部がルパンのお父さんであったなら、警部はルパン二世になってしまうではないか。「そりゃそうか!」と子どもながらに己の不明を恥じた。それまで「ルパン二世がルパン三世を追う」ことに違和感を抱きながらも、おもしろがって見ていたのだからすごい。子どもというものはフリーダムである。

「こんなに失敗ばかりしとったら、ほんまはクビになるんやぞ」

 銭形警部がルパンを取り逃がすたびに、父はそう言って現実の厳しさを子どもに説いた。

「でも、ルパンを捕まえてしまったら、銭形警部はどうするんだろう?」

 捕まってしまえば、ルパンはルパンでなくなる。銭形警部もまた、ルパンを捕まえれば、目的がなくなる。だから銭形警部のためにも、ルパンは逃げ続けなければならない。そんなことを考えた。アホの子なりに、人生の意味と絶望について考察していたのである。

 しかし、考える少年も、峰不二子となるとお手上げであった。ルパンが何遍も峰不二子に獲物を横取りされるのが納得できない。「なんでルパンはこんなやつに騙されるんだ!」と、毎回悔しい思いをした。もちろん、たまに峰不二子の裸がチラリと映ったりするとドキドキしないでもなかったと思うが、そのドキドキと、ルパンが不二子に騙されるということが、なぜかうまく結びつかなかったらしい。

「けっしてルパンのようにはなるまいぞ。せっかくの獲物を女性に奪われるようなのはいやだ」

 そう思った私は、女性と一定の距離を置くことに決め、「独身主義」を標榜するようになった。むろん、それは子どもの頃の話で、そんなにカンタンに初志が貫徹できるならば何の苦労もない。今の私は、「たまには獲物を奪われるのもいいな」と思ったりするまでに堕落した。

一つのシリーズに違う匂いが同居する

 子どもの頃の私にとって、「ルパン三世」の何がおもしろかったのだろうか。

 その感覚はもう正確に思い出せないけれど、まず一つ目は「分かりやすい」ということ。「盗む」というのは、目的としてたいへん明快である。なぜ盗むのかというと、泥棒だからである。ではなぜ泥棒なのかというと、盗むからである。じつにシンプルである。

 二つ目は登場人物の役割が決まっているということ。共通の目的のためにルパンと次元と五ェ門は協力し、彼らは決してたがいを裏切らない。裏切るのは峰不二子の役回りだ。そして、銭形警部はつねにルパンたちを追い続けている。多少の変形はあるものの、まずはこの基本形があるから安心である。

 そして三つ目は、ありとあらゆる大がかりなアクションがあること。車が走る、船が走る、飛行機が飛ぶ、銃撃戦がある、爆発がある。これはやっぱり、おもしろい。

 そんなふうにルパン三世に馴染んでいた私だが、じつのところ1st.シリーズの記憶は曖昧だ。五ェ門がそもそもルパンの仲間でなかったということさえ憶えていない。はじめの方は見ていなかったのかもしれない。はっきり憶えているのは、チャーリー・コーセイの「赤い波をーうう」というエンディングが嫌いだったということだけである。アニメを一話見終わるということは、子どもにとって、ただでさえ淋しくてやりきれないものだ。そこへあの哀愁に満ちたメロディーを聞くとたまらなくなる。唐突に「ああ僕もいつか死ぬんだ」と思ったりする。では明るければいいのかというと、「ル、ル、ルパンルパン!」という陽気な歌も好きではなかったのだ。子どもというのは、じつにうるさい。

 今回、1st.シリーズを改めて見ておもしろかったのは、私が子どもの頃に馴染んだルパンと、それとは違うルパンが一つのシリーズに同居しているところである。

 大ざっぱに言うとすれば、1st.シリーズのはじめの方は父と母の世代の匂いがして、後ろの方は私の子どもの頃の匂いがする。「父と母の世代の匂い」などという曖昧な表現はだめなのだけれど、昔の日活映画とか、音楽とか、ファッションとか、そういうものが混ざり合ったものである。そして、後半のルパンは子どもの頃に私が見たルパンと地続きなのだ。

 はじめの方のルパンが、私にはとてもおもしろい。古いものがずうっと一巡りして、おしゃれになるからである。哀愁漂う音楽も素晴らしく合っているし、なにより峰不二子が色気たっぷりで「これならば騙されてもしょうがないや」と思うからである。ただし、これを子どもの頃に見ておもしろかったのかどうか、それは分からない。峰不二子の色気について、ぜひ子どもの頃の自分の意見を聞きたい。「おまえは峰不二子にルパンが騙されるのが納得いかないと言っていたが、この峰不二子であればどうだ?」

 当初の峰不二子の色気は、話数が進むとあっという間に蒸発してどこかへ消えてしまう。それが、今の私には物足りない。でも、そうなるにつれて、作品の雰囲気は、私が子どもの頃に見たルパンの印象に近づいていくのである。「7番目の橋が落ちるとき」の泥棒のくせに正義の味方であるルパン、「タイムマシンに気をつけろ!」のような荒唐無稽な話、「ルパンを捕まえてヨーロッパへ行こう」の銭形警部との駆け引き、このあたりは私が子どもの頃に抱いていた「ルパン三世」のイメージと一致する。つまりは、ここで、かつて私が好きだった「ルパン三世」ができあがったということになるのだろう。

 1st.シリーズを通してみると、そういう変化がよく分かる。しかし、本当におもしろいのは、そういう変化があってもなお、すべてを「ルパン三世」として受け入れてしまえるということだろう。

今だから感じる、登場人物たちの配置の完璧さ

「ルパン三世」というアニメは、けっきょく何なのだろう。

 そもそもルパン三世というへんてこな人物は何者なのだろう。

 ルパン三世を定義するのはムツカシイ。アルセーヌ・ルパンの孫であり、ワルサーP38を愛用し、狙った獲物は必ず盗む神出鬼没の大泥棒。たしかにそういう説明なのだが、それだけでは腑に落ちない。
 それよりもこう言ったほうがピンとくる。

 ルパン三世というのは、殺風景な部屋のソファに寝っ転がって、次元大介といっしょにグダグダしている人物である。石川五ェ門という堅物をからかうエエカゲンな人物である。いつも峰不二子という女性に騙されている人物である。そして、いつも銭形警部に追われている人物である。

 そういう人たちの中心にいるのがルパンという人物で、だからこそルパンなのである。ルパン三世が一人でぷらぷらしていてもダメなのだ。逆に言えば、次元、五ェ門、峰不二子、銭形警部が登場してくれるから、ルパン三世が登場してくれる。だからこそ、「ルパン三世」になる。

 あらためて考えてみると、この登場人物たちの配置は完璧で、すごく楽しいし、想像が広がる。物語を作ってみたくなる。そういうものはいいものだと私は信じる。

 次元大介とルパンの間合いの取り方─「友よ!」と馴れ合いすぎたりせず、エエカゲンな雰囲気も残しながら、それでも同じ目的のために協力する─は、目的が「泥棒」という悪事であるとしても、やはり男同士の関係として素晴らしい。そして、彼らから少し距離を取ったところに五ェ門という変わり者がいて、ルパンと次元、次元と五ェ門、五ェ門とルパン、と、それぞれ距離の違う関係が交錯しているのがいい。しかし凸凹三人組が一致団結して目的を達成するというだけでは物足りない。だから峰不二子がちょっかいを出してくるのがスパイスになる。そんな彼らを「ルパン一味」としてまとめ上げ、問答無用で一つの方角へ走らせるのは、後ろから追いかけてくる銭形警部である。

 ゆるやかにつながった友人たちがいて、自分を弄んでくれる女性がいて、いやでも何でも自分の役割を思い出させてくれるライバルがある。つまり、これは一つの理想形だ。

「泥棒になりたい」と思うわけではないが、「こういうのはいいな」と思う。

 作品を見る目は時間がたつうちに変わってくる。子どもの頃の私は「ルパン三世」をそういう風には見ていなかったろう。しかし今の私にとって、「ルパン三世」という作品はそういうものなのである。

(作家 もりみ・とみひこ)


森見登美彦(もりみ・とみひこ)

一九七九年、奈良県生まれ。京都大学農学部卒業、同大学院修士課程修了。在学中の二〇〇三年に『太陽の塔』(新潮文庫)で第十五回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。『夜は短し歩けよ乙女』(角川文庫)では第二十回山本周五郎賞を受賞。その他の著書に『四畳半神話大系』(角川文庫)、『きつねのはなし』(新潮社)、『新釈 走れメロス 他四篇』(祥伝社)、『有頂天家族』(幻冬舎)、『美女と竹林』(光文社)などがある。