メインコンテンツ | メニュー | リンクメニュー

Main Contents

コメント森見登美彦さん

一つのシリーズに違う匂いが同居する

 子どもの頃の私にとって、「ルパン三世」の何がおもしろかったのだろうか。

 その感覚はもう正確に思い出せないけれど、まず一つ目は「分かりやすい」ということ。「盗む」というのは、目的としてたいへん明快である。なぜ盗むのかというと、泥棒だからである。ではなぜ泥棒なのかというと、盗むからである。じつにシンプルである。

 二つ目は登場人物の役割が決まっているということ。共通の目的のためにルパンと次元と五ェ門は協力し、彼らは決してたがいを裏切らない。裏切るのは峰不二子の役回りだ。そして、銭形警部はつねにルパンたちを追い続けている。多少の変形はあるものの、まずはこの基本形があるから安心である。

 そして三つ目は、ありとあらゆる大がかりなアクションがあること。車が走る、船が走る、飛行機が飛ぶ、銃撃戦がある、爆発がある。これはやっぱり、おもしろい。

 そんなふうにルパン三世に馴染んでいた私だが、じつのところ1st.シリーズの記憶は曖昧だ。五ェ門がそもそもルパンの仲間でなかったということさえ憶えていない。はじめの方は見ていなかったのかもしれない。はっきり憶えているのは、チャーリー・コーセイの「赤い波をーうう」というエンディングが嫌いだったということだけである。アニメを一話見終わるということは、子どもにとって、ただでさえ淋しくてやりきれないものだ。そこへあの哀愁に満ちたメロディーを聞くとたまらなくなる。唐突に「ああ僕もいつか死ぬんだ」と思ったりする。では明るければいいのかというと、「ル、ル、ルパンルパン!」という陽気な歌も好きではなかったのだ。子どもというのは、じつにうるさい。

 今回、1st.シリーズを改めて見ておもしろかったのは、私が子どもの頃に馴染んだルパンと、それとは違うルパンが一つのシリーズに同居しているところである。

 大ざっぱに言うとすれば、1st.シリーズのはじめの方は父と母の世代の匂いがして、後ろの方は私の子どもの頃の匂いがする。「父と母の世代の匂い」などという曖昧な表現はだめなのだけれど、昔の日活映画とか、音楽とか、ファッションとか、そういうものが混ざり合ったものである。そして、後半のルパンは子どもの頃に私が見たルパンと地続きなのだ。

 はじめの方のルパンが、私にはとてもおもしろい。古いものがずうっと一巡りして、おしゃれになるからである。哀愁漂う音楽も素晴らしく合っているし、なにより峰不二子が色気たっぷりで「これならば騙されてもしょうがないや」と思うからである。ただし、これを子どもの頃に見ておもしろかったのかどうか、それは分からない。峰不二子の色気について、ぜひ子どもの頃の自分の意見を聞きたい。「おまえは峰不二子にルパンが騙されるのが納得いかないと言っていたが、この峰不二子であればどうだ?」

 当初の峰不二子の色気は、話数が進むとあっという間に蒸発してどこかへ消えてしまう。それが、今の私には物足りない。でも、そうなるにつれて、作品の雰囲気は、私が子どもの頃に見たルパンの印象に近づいていくのである。「7番目の橋が落ちるとき」の泥棒のくせに正義の味方であるルパン、「タイムマシンに気をつけろ!」のような荒唐無稽な話、「ルパンを捕まえてヨーロッパへ行こう」の銭形警部との駆け引き、このあたりは私が子どもの頃に抱いていた「ルパン三世」のイメージと一致する。つまりは、ここで、かつて私が好きだった「ルパン三世」ができあがったということになるのだろう。

 1st.シリーズを通してみると、そういう変化がよく分かる。しかし、本当におもしろいのは、そういう変化があってもなお、すべてを「ルパン三世」として受け入れてしまえるということだろう。