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少年の春、少女の現実 (小冊子『熱風』2007年2号掲載)
作家 あさの あつこ
わずか三十分に満たないこの作品を読み終えて……いや観終えて、わたしの脳裏に浮かんだのはその一言。
不思議な世界だった。
相反する二つのものが、混ざり合い、融け合う。混ざり合い、溶け合ったはずのものが突然、裂け、千切れ、散り散りに分かれていく。幻想と現実、精神と肉体、理想と俗心、男と女……一つの映画に、一つのシーンに、一人の少年の内に、同時に存在する。
不思議としかいいようがない。その、なんとも言葉にできない(わたしの力では)不思議さは、そのまま、このアニメーションの美しく繊細でありながら、破壊的で猛々しい印象の不思議さへとつながる。さらにいうなら、「少年」と呼ばれる者たち、人生のほんの一瞬でしかない時を生きている者たちの持つ、不思議さそのものに重なっていく気がしてならない。
くどくどと筋を語ることは、いつだって無粋だ。対象相手の作品がこちらの力量を遥かに超えてそこにあるものなら、なおさら、無粋で無用で意味がない。そういう意味のないことを延々と続けてきた過去があるのだけれど、このごろやっとその無意味さに気がついた。圧倒的な何ものかを含む作品は、普段、家人に辟易されるほど饒舌なわたしの口をぴたりと縫い付けてしまう。否応なく瞑目と思索を促す。
黙せ。そして思索せよ。と。
このところ、この「春のめざめ」を筆頭に、そういう稀なる作品にいくつか奇跡のように出会うことができて、自分のどんな言葉も及ばないなら、黙り込むしかないなと思い至ったのだ。ただ、物書きの端くれとして、言葉を完全放棄してしまうわけにはいかないから(放棄できればある意味、楽ではあるのでしょうが。姑息でもあります。別に肩肘はって構える必要も、大仰に覚悟する須要(しゅよう)もないのだけれど、やはりぎりぎり守り通さねばならない自負や矜持(きょうじ)ぐらいは何とか持ち応えたいのです。これは、少年も少女もおじさんもおばさんも関係ないのではと考えたりしています)、足掻(あが)いてはいる。足掻きながら自分の言葉で、圧倒的な作品の一端なりを語りたいと切望してもいるのだが。
ああ、そういえば、この切望感。希求の想い。
求めて、求めて、なお求める。やっと手にしたと思ったものは、一掴みの砂よりも儚(はかな)く、さらさらと指の間から零(こぼ)れていく。だから、また求める。求め続ける。一生をかけても決して手に入れることのできないものじゃないかと絶望し、いや、いつか必ず叶うときがくると希望を抱く。両極を揺れ動く心は遥か遠い昔、わたしがわたしの少女期に胸の奥底深く秘めていたものと酷似してはいないだろうか。十代のわたしは、怖れることも傷付くことも知らず、そのくせ傷付くことをとても怖れていた。言葉も人間も信用せず、でも言葉で他人とつながりたかった。憧れは果てなく広がり、その分、現実が、自分の容姿とか本性も含めて、卑小で陳腐に思えたりした。求めながら拒み、縋(すが)りながら逃げる。そういう時期が確かにあった。 「春のめざめ」に出会って、自分の内に眠っていた過去のわたしが覚醒する。
そうか、おまえはまだ、わたしの中にいたのだね。
ここまで書いて気がついた。「春のめざめ」は、また、少女の物語でもあるのだと。
十九世紀末のロシア。一九一七年のロシア革命前の帝政ロシアが舞台である。主人公は十六歳の少年、アントン。彼の家で働く少女パーシャは貧しいけれど……あっ、いけない。くどくどと筋を語る無粋を冒すところだった。だけど、わたしはこのパーシャが大好きなのだ。ものすごく魅力的な少女だと思う。アントンが恋する相手は、パーシャと隣家の美しい令嬢セラフィーマの二人。付け加えれば、ツルゲーネフの『初恋』の女主人公ジナイーダにも夢中になっているのだが、妄想逞しい、つまり、ふわふわと架空の世界を浮遊する少年を現実へとひきもどすのが、生身の肉体をもった二人の女性だ(まったくの余談だけれど、アントンのように本の中の異性、いや同性でもいい、本の中の誰かに恋をし、その恋を足がかりとして自分の感性を我知らず研磨し、研ぎ澄まされた感性で現実に対峙していく、そんな少年は二十一世紀のこの国にまだ、存在しているのでしょうか。それほど魅力的な主人公を要した本が存在するのでしょうか。うーん、どうだろう。難しいところです。ちなみに、わたしは、かの昔、小説の中の主人公に恋をしたことがあります。恥ずかしながら。それは現実の恋より、ずっと甘美で哀しく、すてきだった……のです。十代の現実感の希薄な恋を大人は何時の世も嘲笑うけれど、わたしは恋の種類は多岐にわたる方がいいと思います。現実の恋、架空の恋、実らぬ恋、憎しみと紙一重の恋、淡い恋、どろどろとうねる恋……たくさんの恋を知っている人はいいな。この歳になってつくづく感じたりしてます。豊穣な地を己の内に拓いている人なのだと。恋なのか、単なる欲なのか、駆け引きなのか、遊びなのか、見極めるのは、そう簡単ではないでしょうけれど。ときどき、いや度々、かん違いしてるよなあ、それ、恋じゃないでしょとツッコミを入れたくなる人に出会いますよね。あっ、そういう人こそ「春のめざめ」を観てほしいなあ。百万の言葉より、一つの映画が真実を教えることって、ままありますよね)。
セラフィーマは謎だ。美しい謎。アントンを翻弄するようでいて、「わたしを愛してくださる」と縋ってくる。凛としているかと思えば、脆くも崩れていく。
たまんないだろうなあ。
アントンにしてみれば、もうたまらないほど愛しいだろうなあ。
なんて、スクリーンを見つめながら呟いていた。
わたしがアントンであっても、もう、瞬きする間に虜になってしまうだろう。この腕に抱きたいという想いとあの胸に抱かれたいという望みが、少年の胸の中で渦を巻く。
セラフィーマは、少年の恋の相手として神のように完璧であるけれど、女性たちにとっても理想なんじゃないだろうか。これも余談だけれど(余談ばかりが多くて、すいません)、以前、悪友数人と喫茶店でケーキセットをぱくつきながら、しゃべったことがある。 「いい女の定義って、なによ」 「顔と頭とスタイルがいいこと」 「食べても太らない体質の人……うらやましい」 「それは、あんたの理想じゃが」 「男に依存しないでも生きていけるってやつじゃないんかな。なあ、そっちのミルフィーユ、おいしい?」
好き勝手な意見が飛び交ったが、そのうちの一人が黒ゴマプリンを口に運びながら、ぼそりと言った。 「自分よりずっと年下の男を夢中にさせる女」
フォークやスプーンを持った手を止めて、しばし、わたしたちは顔を見合わせた。黒ゴマプリンを除いて、みんな、なるほどという表情をしていた。
なるほど、まさにそのとおり。丁度、大人の女と少年の恋愛をしっかり書いてみたいなんて野望を胸に芽生えさせていたころだから、黒ゴマプリンの言葉は沁みた。わたしたちは、自分たちの前に並んだほぼ空になったケーキの皿を見回し、誰からともなくため息をついたものだ。自分の魅力だけで、少年の一途な恋を手に入れるなんて至難の業だ。美しいだけでも、聡明なだけでもできることではない。だから、セラフィーマは理想。アントンとの恋によって自分も傷付くなんて、ますます理想だ。自分も相手も傷付けてこその恋ではないか。二十五歳の女が十六歳の少年を傷付け、傷付けられる。うわっ、うらやましすぎて頓死しそうな気分だ。
ずっと少年に焦がれてきた。たった一人の少年に捉えられ、捕縛され、拘り続け、書き続けてきた。彼にそれこそ恋をしていたのだ。彼の想いに肉薄したい、彼の生き方に迫りたい、彼の全てを手に入れたい。一人の少年と闘ってきた。今もまだ、闘っている。だから、セラフィーマは理想。こんなふうに、少年を一人、翻弄してやりたかった。くそっ、負けないぞ。
だけど、やはり一等好きなのはパーシャなのだ。彼女の現実を生き抜く逞しさと一途さと儚さがいい。軽くはないだろう人生の荷物を背負いながら、歌を歌い、恋をして、生きる。自分から想いを告白する勇気も、アントンの軽薄な行為を詰(なじ)る強さもちゃんと持っている。
少女はいつだって逞しくも一途で、はかない。すてきな少女、いや人間だと思う。 「春のめざめ」は少年だけではない、少女の姿もまた鮮やかに、濃密に、描きだしているのだ。さらに、ステパンという名の御者もいい。野卑で向こう見ずで、牛の角に突かれて絶命する哀れな男ではあるのだけれど、アントンに過酷な現実を生きる男の力をみせつけたりする。こういう男が傍にいるからこそ、少年時代の輝きはさらに眩しさを増すのだ。
セラフィーマもパーシャもステパンもアントンも、一人一人が繊細に描き出され、スクリーンの上で躍動する。少年の二つの恋も輝きを放つ。それは、人物の造形ということなのだろうが、もう一つ、絵画を思わせる独特のアニメーションの手法によるところが大きいのだろう。
すごい。
心底、感じた。こんなアニメは初めてだった。巧緻(こうち)で印象深い油絵を思わせる画像に息をのんだ。この映画のもう一つの主役はこの画法そのものではないのだろうか。
すごい。それしか、言えない。この眼でしかと観てから、もう何日も経つのに、やはりこれしか言えない。
すごい。
わたしがアニメーションにはまったくの素人だから、ひたすら圧倒されているのだろうか。そうではないような気がする。絶対に違うと思う。だって、すごいんだもの。アニメーションに対する認識がひっくり返った。こんな世界があったのだと、未踏のジャングルに踏み込んだ探検家の心境だ(未踏のジャングルに踏み込んだ探検家になったことはないです。念のため)。あっけにとられもしたけれど、「春のめざめ」はこの画像でしか表せないものなのだと、少し冷静になった今、思っている。十六歳の少年の言葉では言い尽くせない恋を描くには、これしかなかったし、これより他の描き方では不可能だったのだと。
たくさんの方に観てもらいたい。老若男女問わず、昔、恋をしたことのある人、今、恋をしている人、恋に破れた人、いまさら恋なんてと笑っている人、愛することを忘れていた人、憎しみを心に抱えている人、愛されたいと身悶えするほど望んでいる人、過剰な愛に辟易している人……いろんな人に触れてほしい。
でもやはり、思春期と呼ばれる一瞬を生きるあなたに、あなたの眼と心で見つめてほしい。
そんな映画です。
あさの あつこ
一九五四年生まれ。岡山県出身。青山学院大学文学部卒業後、小学校の臨時教員を勤めた後、作家としてデビュー。一九九七年の『バッテリー』(教育画劇)で野間児童文芸賞、一九九九年の『バッテリー II』で日本児童文学者協会賞を受賞。その他のおもな代表作には、『No.6』(講談社)『ほたる館物語』(新日本出版)『THE MANZAI』(講談社)『風の館の物語』(講談社)『福音の少年』(角川書店)など。