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激しい混沌の中に、一瞬、
静謐なヒトコマが残像する。 (小冊子『熱風』2007年2号掲載)
― 思いつくままに。―
映画作家 大林 宣彦
初老の紳士が、新幹線の列車の窓辺に身を寄せて、ツルゲーネフの『はつ恋』の文庫版を読んでいる。ぼくの現在の、ぼく自身の年齢に相応しい、はつ恋の心象風景である。
だから、ぼくもそうしてみる。中中紳士という訳には参らぬが、それでもそれなりに、ぼくも齢を重ねて来た。痛く、切なく、はつ恋は身に染みる。コトンコトンと身が揺れる。魂が軋む。
はつ恋は、老人によく似合う。ツルゲーネフの『はつ恋』も、深夜の零時半、静かな部屋の中に、人生から取り残された老人が三人、互いの初恋を語り合おうという場面から始まる。所が初恋談義など他愛なく、語れば「無味乾燥なあっけない話になる」のが落ち。そこで一人の紳士が昔の思い出を手帳に書き止めた。
手帳に書き止める事で、初恋は甘美な物語となり、ぼくら読み手の胸を打ち、且つ震えさせる。語り部は「四十がらみの、黒髪に白を交えた男」とあるが、読者にはもう充分に老人だ。即ち、初恋からは既に遥かに遠い、老残の身である。これが、自らの初恋を語り得る、人生の条件でもある。
― 嗚呼、夙(はや)く老人になりたい! ―
初恋の最中(さなか)の年齢に居た、十六歳のぼくは、日がな一日、そう願っていた。現実の中の初恋は成就する筈も無く、身悶えする程に狂おしく、夙く平穏な老人と相成って、我が恋を静謐に思い起こしたい。初恋は、過去となる程に、美しいものだから。
ぼくら少年は、そうやって、例えばシュトルムの『みずうみ』に憧れた。ある西欧の湖の辺(ほとり)、老人が遠い昔恋した、一人の少女を思い出す。その甘く切ない物語の頁を繙(ひもと)くぼくら少年は、だから誰もが、心情はもう老人だ。
木下恵介監督の映画「野菊の如き君なりき」もそうだった。或る老人が、川辺をさ迷い、遠い日の叶えられなかった初恋を思い出す。痛切な悲恋が甘く切なく物語られる。嗚呼、これは『みずうみ』だ、とぼくら少年の誰もがそう思い、この映画を頓(ひたぶる)に愛した。それ程に、『みずうみ』は、当時の恋に焦(こが)れる世の少年たちにとって、永遠の初恋の書であった。抒情と清純の、魂の書であった。
ジイドの『狭き門』、福永武彦の『草の花』、そして当然の筋道としてツルゲーネフの『はつ恋』。「初恋」ではなく「はつ恋」と表記された工夫が、これぞ極め付きの「初恋物語」を予測させる。
映画「春のめざめ」では、冒頭で、主人公の十六歳の少年アントンが、ツルゲーネフの『はつ恋』を読んだと語る。ナレーションに拠る表現だから、語るというより、これはもう、告白だろう。
御負けに『はつ恋』の「恋人」ジナイーダの名まで口にされるのだから、これは『はつ恋』の物語をこの映画に引用したとか、影響を受けた所の話じゃあない。映画「春のめざめ」は主人公の少年は勿論、語り手である作者までが、その魂の奥底深くにまで、すっかりツルゲーネフの『はつ恋』に冒されている。
まあまあ、それはこの映画を見て御覧なさい。何ものかに、残酷にまで冒されたいという強い欲望と自覚が無い限り、この様な作品をヒトコマヒトコマ積み上げて、一本の映画として完成させる事など出来はしない。そういう意味で「春のめざめ」二十七分は、いっそ至福の映画的快楽を、ぼくら観客に齎(もたら)すと言い切って良い。ぼくらは神に冒される事を願って、創造の世界に励むのだから。
新幹線の列車の窓辺の座席で、独りツルゲーネフの『はつ恋』を手に取ってみたのは、それ故にである。この書物を初めて手に取ってから、四十年余が過ぎている。所がすっかり忘れていた。ぼくは書物に関しては、句読点に至るまでじっくりゆっくり読む質である。福永武彦の『草の花』など、十六歳の時、丸暗記していた位だ。所がツルゲーネフの『はつ恋』は、何と恋するジナイーダの名すら忘れていた。いや、忘れたのじゃないな。これは意識的に、ぼくがぼく自身の魂の襞から、削ぎ落としていったのだ。この書物を手に取った事自体を、忘れたかったのだ。
私事に渉って恐縮だが、ぼくは関西方面だけでも、二つの大学の映画・映像関係の客員教授をしていて、若い人と共に映画を作り語る事を晩年に近い人生の、一つの目的としている。今回も丁度、作品の卒業制作の時期で、彼らの映像作品を数十本見て、愉しく日日を過ごそうという旅だ。若い人の作るものには、実写もアニメも含めて、「初恋もの」も多いしね。と言っても作品と対峙すれば真剣勝負、心底ハードな時間が待っている。御負けに二十五年振りに過去の自身の作である「転校生」なる映画を再び製作して、その編集仕上げ、これ以上切ったら我が魂の存在は掻き消えるぞ、とまで煮詰めたフィルムを、そこから更に十分、切り落そうというのだ。誰に言われた訳でも無く、自分でそう試みるのは、それが他者に我が想念を伝える最良の方の一つであるからだ。で、徹夜、徹夜の連続で、新幹線に乗れば、窓辺の初老の紳士然と気を張っているよりは、寝穢(いぎたな)いおじさんでいる方が、楽、というより、自然とそうなる。
それがもう、夢中で『はつ恋』を読んだ。主人公の十六歳の少年と共に、ジナイーダを恋した。そしてこんなに愉しく、面白く、然(しか)も読み易い本であったか、と驚いた。ぼくの遠い記憶の中では、『はつ恋』は期待の上に期待を増幅させて、胸打ち震わせながら頁を捲(めく)った本だった。所が恋するジナイーダは五歳も年上で、少年を翻弄するだけ翻弄し、その上に少年の父親と肉体を重ね、見知らぬ男と結婚し、出産と同時にあっけなく死んでしまう。どうしてこれが憧れの悲しき初恋か。ぼくは激しく絶望し、この書物との出合いを我が人生最大の悪夢と考え、詰りは読み進めるのが甚だ困難な物語であり、ぼくは慌てぼくの記憶の中から抹殺したのであろう。
それが今は明晰に、愉しく面白く読まれるというのは、ぼくが老年になったからか。ぼくは漸く、初恋を味わうに相応しい、老人に成ったという事か。
心のリアリティを焙り出す、 アニメーションという技法。
アレクサンドル・ペトロフ監督作品のアニメーション短編映画「春のめざめ」は、正しくツルゲーネフの『はつ恋』の世界である。純潔な少年の魂の初恋の物語でありながら、彼の生命たる肉体は身勝手に自己主張する。御負けに少年の恋人である二人の娘は、共に女として成熟し、悪意の様に彼の無意識を挑発する。少年にとって、この初恋は、悪夢の記憶であるに間違いあるまい。
ぼくの畑の実写の劇映画というのは、まことに不自由である。フィルムに写し出されたものが、どんなに創造的な世界であっても、作り手も受け手も、リアリズムの呪縛から逃れ得ない。ぼくは芝居を見るのが大好きな人間だが、それはあの舞台空間の、留め処ない表現の自由さに憧憬するからだ。
アニメーションにも同様の敬慕を持つが、今回の「春のめざめ」の映像表現のあり様には、ほとほと呆れ果てる程に、感心した。少年の魂の純潔と、隠された肉体の生命力とが見事に一体化し、躍動し、リアリズムなど吹っ飛ばして、心のリアリティを焙り出す。神と悪魔とが合体し、映画表現の清純さに至る。それは正しく『はつ恋』なる存在、そのものの姿ではあるまいか。
油絵タッチのアニメーション作品、という至難の業に挑んだ事も、ツルゲーネフ的『はつ恋』の描出を成功させるのに役立っている。アニメーションにし易い伝統的な線画では、この混沌とした『はつ恋』世界には到底近付き得ず、単に純情可憐な初恋のファンタジィに終始した事であろう。
油絵がここまでフルアニメで動く効果には当然の様に驚歎させられたが、然し刮目に価するのは、そこに紛れ込み、残像し、垣間見えるストップイメージが生み出す、映画的表現の力である。
ぼくはこの「春のめざめ」を見ながら、ふとこの日本では稀有で知的な個性を持つ、小説家芥川竜之介作の短編『蜜柑』を想起した。これから「奉公先へ赴こうとしている」田舎の小娘が、走る汽車の窓から半身を乗り出す様にして、踏切りに見送りに来ていた三人の弟たちに懐からいくつかの蜜柑を取り出して投げ与える。「瞬く暇もなく通り過ぎた」情景が、それを見ていた主人公の心に「切ないほどはっきりと」焼き付けられ、「得体の知れない朗らかな心もち」が湧き上がってくるという物語だ。
この目の前をさっと通り過ぎ、瞬時にして流れ去り、決してリアリズムとしては結像し得ぬ世界。しかしそれが残像し、心に焼き付いた瞬間に、永遠の愛しい物語として、静謐にして且つ、しかと心の奥底に留められるリアリティ。これなぞは決して実写の劇映画では表現し得ぬ文学的感動なのだが、「春のめざめ」の作り手たちは、アニメーションという技法を用いて、見事に、健(すこやか)に、この稀有な芸術的感動を手繰り寄せて見せたではないか。然も、二十七分という極め付きにまで削ぎ落された時間の中で。
アニメーションのヒトコマは、死せる一枚の絵だ。これを連続して絵を重ね、動かす事で物語を創造する。だがそれがまた、多くは動かせ動かせで無自覚なムービングピクチュアと化す理由でもある。高畑勲さんの秀作アニメーション作品「火垂るの墓」の成功は、「アニメーションのヒトコマは死である」という強い自覚が生んだ、少女節子の死の描写故であった。名優が只息を止めて寝ころんでいるだけの実写では、及びもつかぬ映画的表現だ。同じく「おもひでぽろぽろ」は田舎に恋する少女の物語だが、彼女を迎える田舎の人びとは、田畑の風景の中で働きながら、ストップモーションのままで自然に佇(た)っている。彼女はやがてこの田舎を愛し永住を決意するのだが、彼女自身が田舎の暮しの一部として、自然にこのストップモーションに成り切れるかどうかという不安が、受け手であるぼくらの内部に永遠に残像する。そして、ぼくは彼女の為に祈る。彼女の幸福を、彼女と共に願う。それが、作品を共有する、という事だろう。
情け知らずな人の口から、わたしは聞いた、死の知らせを。
そしてわたしも、情け知らずな顔をして、耳を澄ました。
恋人を喪った後で、ツルゲーネフの『はつ恋』の主人公が思い起こした詩の文句だ。神西清、訳出。この取り返し得ぬ悔恨の言葉は、「春のめざめ」の十六歳の少年の胸に響き、最早老人と成ったこのぼくの内部をも豊かに、幸福感に導いてくれる。アニミズムの悦びが、今、初恋の様に、ぼくの全身を至福の想いで被い尽す。
そして、ぼくは思い継ぐ。しかしながら、初恋は決して老人の回顧には留まらない。これは人の生涯を紡ぐ物語だ。若年時は若書きの老人として、歳を経てからもずっと初恋の思いを心に描き続ける限り、ぼくらは常に少年であり、むしろ老いた後は、ヴェテランの少年であるのだとぼくは考える。こうしてぼくは今も「初恋」の映画を作り続け、今日は「春のめざめ」に出合う幸福を得たのである。
大林 宣彦(おおばやし・のぶひこ)
一九三八年、広島県尾道市生まれ。映画作家。故郷で撮影した「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」は"尾道三部作"として知られている。その他、主な作品として「はるか、ノスタルジィ」「なごり雪」など。「異人たちとの夏」で毎日映画コンクール監督賞、「ふたり」でアメリカ・ファンタスティックサターン賞、「青春デンデケデケデケ」で平成四年度文化庁優秀映画作品賞、「SADA」でベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞、宮部みゆき原作「理由」で日本映画批評家大賞・監督賞と藤本賞奨励賞を受賞。今夏「22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語」「転校生~さよならあなた」が公開予定。