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2006年3月 8日対談:太田光×高畑勲 「王と鳥」と現代という時代 (2)
縦型社会の崩壊というメタファー
司会
そういう意味でもフランスで作られた「王と鳥」は、単に感じるものではなく理解する面白さをもった映画だと?
高畑
先ほども言いましたが「王と鳥」は単に感情に訴える映画とはまるで違うものなんです。ここには壮麗な城の形をしている縦型社会が登場します。その城の一番上には王様がいて、一番下の下層市街には太陽も見たことのない貧しい人が暮らしている。この世界を主人公たちが上から下まで逃げていって、王様に反抗する鳥が動物たちを先導して暴動を起こし、結局世界が全部崩壊してしまうんです。
では、この世界が崩壊してしまうのはなんだろうと。僕は現代に照らし合わせると9・11のことを感じたんです。あれは現実ですから耐えられないことですけれど、これは現実ではなく、ファンタジーの世界です。でも、すごく壮麗なものを全部壊すっていうこの意味はなんだろうって呆然とするんです。そうすると、縦型の社会はダメなんじゃないかということを言っているんじゃないかって。そこから、9・11の悲惨さだけに捉われて、報復戦争をやるとかではなくて、どうしてああいうものを壊したかったんだろう、壊そうとしたんだろうということにも考えが及ぶ意味では、この映画は二重写しにそれを感じさせてくれたんです。
王様の生活にしても、城のてっぺんに誰も入れない個室があって、彼はその密室に閉じこもってね。この世界では最新オーディオ機器である仕掛けで甘い唄を聴きながら、絵に描かれた女の子に恋心を燃やす。それは平面キャラクターに“萌え”を感じる今の人たちにそっくりだと思う。また王様は気に入らない奴を、スイッチひとつで跡形もなく落とし穴に落としてしまうんです。これなんかも自己中心的な現代人の願望に共通するものだと思います。
この映画の基になった「やぶにらみの暴君」が発想されたのは第二次大戦の終結直後。そして「王と鳥」が公開されたのはロシアの社会主義体制にほころびが見えてきた1980年です。だから当時は、ナチスとかスターリン的な全体主義みたいなものに対する批判とか、いろいろ言われたかもしれないけれど、ここに描かれていることは21世紀の今にも通用しているんじゃないか。半世紀も前に発想されたことが過去のものにならない怖さを思うと、人間の歴史は本当に同じことを繰り返していると感じます。
太田
縦型社会を崩壊させちゃう表現というのは、9・11を例にして考えるならテロリストの立場になるということですよね。それはおそらくTVで言うことは許されないんじゃないでしょうか。
我々が何かを表現する時というのは、こういうおとぎ話や童話やファンタジーに置き換えて示す。それは表現者の芸ですよね。僕は芸がないからストレートに言おうとするんですよ。そうすると“それはダメ”っていうことになる。“テロリストの気持ちをわかれよ”という側面があるんじゃないかと思っても、表現できないんですよね、言葉では。
でも例えば小泉首相が“特攻隊の青年たちの手記を読んで、涙した”という話を美談として語る。特攻隊というのは、全部がそうだとは言わないけれど、何かを守ろうとして自分の命を犠牲にしているということでは自爆テロと一緒だろうと思うんです。その特攻隊の手記を読んで感動できるんならテロリストの気持ちもわかるんじゃないかと。それなのに一方では“テロには屈しない”と言うでしょう。9・11で肉親を殺されたアメリカ人が言うならわかりますが、パクリだし、どうもそうした感受性というのは信頼できないと感じます。
こういう映画というのは、おそらく作者が自分もそっち側になる可能性があるって思わないと、発想は出てこないと思うんですよね。自分が悪になる可能性っていうのはあるじゃないですか。僕なんかもそれに近いところにいると思うし。
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