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こんな小話があります。
ある人が死に際して、三人の息子に言いました。「うちには十七頭の羊がいる。そのうち二分の一を長男に、三分の一を次男に、二頭を三男に与えよう」。息子たちはいくら考えても解らなくて、僧侶に相談します。すると僧侶は羊を一頭貸してくれました。かくして十八頭となった羊のうち、九頭を長男が、六頭を次男が、二頭を三男が取り、僧侶は一頭の羊を連れて帰っていったのでした。
この「王と鳥」という作品を観て、そんな事をふと思い出しました。僧侶の連れてきた羊のように、表層には見えない、描かれていない「何か」を足さないと、この物語は絶対に割り切れないのです。
なに、この「王と鳥」、お話を説明するのは簡単なのです。
ある孤独な王様が絵の中の娘に恋をする、娘は隣の絵の青年と愛し合っているのでふたりで王様から逃げる、王様に恨みを持っている鳥が勇気と知恵をもってふたりの逃走を手助けし、王国を破壊する。以上。
しかし、鳥は娘と青年に言います。「気をつけたまえ、この国は、罠だらけだ」。気をつけたまえ、この作品こそ謎だらけですよ。王は途中で絵の中の王と入れ替わっているのに、なぜ誰も気付かないんだろう。本物の王は、落とし穴に落ちてどうなったんだろう。そんな事知らないので誰も心配もしないしざまをみろとも思わないけどいいのかなあ。鳥はいつの間に捕まったのだろう。民衆はどんな生活をしていたのだろう。子犬と小鳥たちは仲良くなってどんなふうに遊ぶのだろう。ライオン達と脱出する時青年はどこに居たのだろう。つかみ合いになった青年と王はどう決着を付けたのだろう。そして、国が廃墟と化して、みんなどこへ行ったのだろう。この革命を導いたはずの鳥も……居るんですよねそこに? どんな表情で、いまロボットを操縦したのだろう……。
作品というものは、「敢えて描く」ことで表現するものです。そもそも存在自体が何らかの意図で「敢えて描かれた」ものです。つまり、殆どは描かれないものであるのです。例えば漫画作品には、一人っ子や親のいない人が現実よりも多く登場しますが、「敢えて描く」べき事をより枝葉無くすっきりと伝えるため、家族を省略しているのです。だから、たんなる省略ではなく「敢えて描かなかった」と伝わるように作るのは、非常に難しい事です。「王と鳥」には、改作にあたって省略された部分もありそうですが、明らかに「敢えて描かなかった」部分があります。そしてそれを伝えるには、描かれた部分がいかに魅力があるかに尽きるのだな、とつくづく思いました。そう、この「王と鳥」はその「描かれなかった何か」についていつまでも考えていたくなる魅力に満ちているのでした。
わたしたちは誰しも、ラクしたい、称讃されたい、きれいなものに囲まれたい、と考えます。それは突き詰めると、高速で進む椅子に腰掛けたまま移動したり、気に入らぬ者を落とし穴で即刻目の前から消したり、部屋で誰にも邪魔されず美術品に見とれたりする事かも知れません。今はそこまで思っていなくても、慣れれば「もう少しもう少し」と増長してゆくものだし、すると結局、わたしもこの王とそう違わないんではないかと思うのです。そして、欲求に従うにつれ、気に入らない周りのものは排除されてゆきます。王を乗せたエレベーターが上の階に上がるにつれ、王が孤独になってゆくように。
王の無能ぶりとわがままぶりは、全くスガスガシイほどで、そのぶん孤独感も並外れています。あれだけワガママの限りを尽くし、存在感を主張していながら、明らかに目付きの異なるニセモノに入れ替わられても、誰にも気付いて貰えません。誰ひとり、正面から王に向き合ってはいなかったのです。鳥すらも。作者さえも。そう、この物語に必要なのは、王個人ではなく、王という「破壊されるべき存在」だけなのです。
いっぽうまた、わたしたちは全面的に信用出来る誰かに出会う事はそうありません。しかし、いつも何かしら不満は抱いているもので、無力な自分の代わりに現状を打破してくれる「誰か」を待っていたりするのです。不満が一致しているからといって、希望も一致しているとは限らないのに。
鳥は、颯爽と陽気で、終始行動的です。王とは逆に、娘と青年をはじめとする多くの支持者を得ています。とはいえ狡猾で、王の容姿を嘲笑したり、舌先三寸でライオンどもを扇動したりと、敬愛し難い面も持っています。
そして鳥によって導かれる結末。残った廃墟は、誰のすみかでもありません。これは誰の望む国の姿であったのだろう。初志を貫いたように見える鳥の望んだ結末ですらあったのだろうか。作者の望む結末ですらあったのだろうか。そう、この物語は「敢えて描かない」ことで、つくりものの世界を越えた結末に、観る者を投げ出すのです。砂漠の中の廃墟に佇んで、美しい音楽にかろうじて心を支えられながら、途方に暮れるしかありません。
「王と鳥」は、架空の国の革命を描いていますが、今わたしたちの暮らすこの世界は、あの王国以上に「罠だらけ」で謎だらけです。革命や戦争こそ身近でないにせよ、争いはいつでも身の周りにあります。そして、居心地の良さを追求する王、憎しみに生活を見失う鳥、指導者を待つだけの民衆。わたしはいずれにもなり得る、いや、すでにいろんな局面でそのいずれでもあると感じるのです。うまい結末が易々とある筈などないのです。そんなものがあるなら、この世界はもっと違うものの筈だから。それでもこの物語の描かれない部分を想像するように、この世界の見えない部分を思っていたいと感じました。
前身である「やぶにらみの暴君」を、わたしはほんの一部だけ観た事があります。少年漫画家・とだ勝之さんのアシスタントをしていた時で、もう十年以上前のことです。宮崎駿さんや高畑勲さんに影響を受け、アニメーション作品もいくつか作られているとださんから、そのかれらが影響を受けた作品だと熱っぽく聞かされて、大いに納得しながらも、こんなものを観てアニメを志せるというだけですでに別世界の人だ、と感じました。暴君の容姿や身のこなし一つ一つがなんとも気味悪くて痛快で、わたしはすっかり圧倒されてしまったからです。「王と鳥」には、心の準備が出来ていたせいか、改作であるせいか、あの時ほどの不気味な衝撃は受けませんでした。しかし、そのぶんこの作品に深く触れることが出来た気がします。思えば思うほど静かな美しさと謎に満ちていて、いつまでも白茶けた沙漠の余韻に浸っているのです。
こうの 史代
こうの・ふみよ1968年、広島県生まれ。漫画家。1995年『街角花だより』(双葉社)でデビュー。主な著作に『夕凪の街、桜の国』『長い道』『ぴっぴら帳』(全て双葉社)などがある。好きな言葉は「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」(ジッド)。『夕凪の街、桜の国』で第八回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第九回手塚治虫文化賞を受賞。
[ 公式サイト特別企画 ]
ポール・グリモーの言葉
高畑勲「王と鳥」を語る
宮崎駿「王と鳥」を語る
対談: 太田 光 × 高畑 勲 「王と鳥」と現代という時代
太田 光 「王と鳥」を観て
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こうの 史代 気をつけたまえ、この映画は謎だらけだ
谷川 俊太郎 インタビュー
「王と鳥」とジャック・プレヴェールの詩的世界